2011年御翼11月号その2

安易な励ましではなく、「理解的な態度」               ―柏木哲夫医師

  

 日本で初めてホスピスを開設した淀川キリスト教病院名誉ホスピス長・柏木哲夫先生は、「ホスピスとは、その人が、その人らしい生を全うするのを援助するプログラムである」と言う。先生はホスピス医として、日本の医療における末期患者とのコミュニケーションでのある間違いを指摘する。それは、安易な励ましが多く行われすぎている、という点である。例えば、患者が弱音を吐きたいときに、多くの医師が、「もっと頑張りなさい」と安易に励ましてしまう。そうなると、患者は絶句し、会話が中断してしまう。日本人は「頑張る国民」であると言えるが、それが医療の世界にも自然と入り込んでいる。患者は弱音を聞いて欲しいのに、医者は、頑張りなさいと言ってしまう。これは患者にとって辛いことなのだ。大切なことは、「理解的な態度」で接することである。「理解的な態度」とは、「私はあなたの言われることが、こういうことだと私自身、理解するのですが、その理解で正しいでしょうか」ということを患者に返してあげる態度である。具体的に言うと、患者の言うことを少し自分の言葉にして、お返しするのだ。「先生、もう私だめなのではないでしょうか」と患者に言われたら、安易に励まさず、「もう治らない、そんな気がするのですね」とお返しする。すると、最後に患者は、「死ぬのが怖くて…」と会話が進む。これが「理解的な態度」であり、それによって三つのことが実現する。1)会話の持続、2)患者が会話をリードする、3)患者が弱音を吐ききることができる。
 柏木先生も、最初は安易な励ましをして、患者との会話を避けていた。それは、会話を持続すると、死の問題が出てくるということを本能的に知っていたからである。それを避けるため、途中で会話を切る一番の方法は、安易な励ましだった。
 伝道する場合や、クリスチャン同士の交わりにおいても、安易な励ましよりも、寄り添う態度が大切である。「信仰があれば大丈夫」などと言うよりも、相手の立場に立つことが求められることが多いはずである。札幌キリスト福音館の教会員・中嶋亜希さんは、かつては神などいらないと見栄を張って生きていた。しかし、心の中は不安で傷ついていた。子どもの頃から、「どうせ私なんて」が口癖だった。周囲から否定され続け、自分を認めてもらうことがなかったので、夢や希望は持てなかった。何のために生きているのか分からず、刺激ばかり求める生活をし、多くの人を傷つけてきたという。中嶋さんは、失意のどん底にいたとき、あるクリスチャン女性と出会う。彼女は中嶋さんを見て泣いてくれた。あまりに辛そうに見えたからだという。そのときに、かたくなだった中嶋さんの心が開けた。そして、クリスチャン女性がイエス様の話をしてくれたのだ。キリストによって救われた中嶋さんは、希望にあふれている。イエス様に愛され、「こんな私」に、神が大きな計画を持っておられ、中嶋さんにしかできないことを必ず用意してくださっていると知ったからである。それは、かつての中嶋さんのようにあてもなく生きている人々に、イエス様の愛を伝える業である。
以下は、「信徒の友 1973年9月号」に三浦綾子さんが記した文章である。


  もっと気軽に伝道しよう  
 伝道とは何か。道を伝えることである。道とは何 か。キリストのことである。伝道は大変だという。 確かに大変かもしれない。だが、それほど大変でないような気もする。
 よく自分の信仰が立派になり、人格が立派になってから伝道するという人がいる。自分の信仰や人格が立派になったと自認するようでは、その信仰も人格もいい加減なものだ。
 伝道とは牧師がするのでもなければ、他の立派な信者がするものでもない。福音にあずかり、救いの喜びを得たこの自分自身がするものなのだ。伝道がふるわなければ、誰かの責任であるかのように思うのは大まちがいで、各自が自分の責任だと悔い改めればよい。
 伝道は隣人への最大のプレゼントだ。自分の得た最大のよいものを、他の人に分かつのである。適切な本を贈るのもよし、口で伝えるのもよし、気軽に喜んで伝道することだ。そしてそれが、信者の第一のつとめだと自分にいい聞かせることが伝道を盛んにする第一歩ではないだろうか。(テモテ第二4:2「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」)

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